閃スク発売記念 『ピンクとグレー』読書感想文

あろうことか開設早々はてなブログからはてなダイアリーに引っ越しました。出戻りと言った方が近いですが…。なんというかネットにも居心地ってあるんだなーっ!って感じ?あといつか強制完全移行命令がありそうだけれどまだ『ダ』って呼びたいんだ


さてさて3月1日にシゲアキ先生の新著『閃光スクランブル』が発売されましたねおめでとうございます.。.:*・°+早速読んで感想も書きたいなあと思ったんですがせっかくなのでPCに書き溜めてあったピングレ感想を残しておくことにしました。その方が閃スク感想を書きやすいのもありまして、おまけに読書感想文の練習として書いていたものなので駄文なのにカンソウブンカンソウブンしてます(笑)。以下。




ピンクとグレー

ピンクとグレー

 読み終えたあとの感覚が、絵画を見た時の感覚に似ていた。得体の知れない強いメッセージを発せられ、つかの間放心状態になるあの感覚だ。小説と絵とでは作品として認識するのにかかる時間は違うが、(良くも悪くも)過去の話と現在進行の話をごちゃ混ぜにしているので、読み終えて押し寄せる波はスパーンと突き抜けるものというより、ずっしりと響くものだった。
 緊張感(≒存在感)を持って存在する登場人物、全体的に意識された光の方向と明暗関係、陰影、図をつなぐべく存在する言葉たち、前半と後半のテンポの差によるリズム。ピンクとグレー。淡い有彩色と鈍い無彩色。本作は、この二色を図色とした一枚の絵のような物語だった。
 その絵画から直接的なメッセージは無い、しかし作者がかけた重く冷たい情熱は言葉の一粒一粒からひしひしと感じることができ、本を読んでいる時以外まで私を世界から逃してはくれなかった。

 私が気になったのは、文中には複数回に渡って人が死ぬ場面が出てくる事だ。ミステリーでもないのに、複数回も。だけれど不思議ととどんよりした印象は持たなかった。一体何故か。それは私は本作における“死”を現実世界の死と別物だと感じたからだ。
 この世からあの世に逝く“死”ではなく、輝くには限りある世界で燃え尽きた後に、感覚の限界さえも何もかものしがらみのない別の世界…異次元に飛び立つことが、作中の“死”ではないか。そう捉えることが出来るのは、『美しく舞い落ちる』と表現する筆者がその異次元=あの世にあたる部分までもしっかりとイメージに持ち、文中に溶けこませたからであろう。

 またその点からすると、主人公は、鈴木真吾(ごっち)から白木蓮吾になる時、一度死んでいる。正確には119ページの芸名を決めた時ではなく、248ページで回顧している同窓会で自身が『(中略)そこにはまだ微かに鈴木真吾がいるはずだった。でも実際は違う。そこには肉も骨もない。』と思った瞬間だ。白木蓮吾として輝くには窮屈すぎるその本名とあだ名という殻を完全に脱ぎ捨てて、短い命を燃やしたあと、空の彼方に消えていった。まるでそう、蝶の一生のように、美しく。

 そして筆者・加藤シゲアキは一度死んでいる。本名の殻を脱ぎ捨て、いよいよ可憐に舞う時だ。ごっちは周りの環境に揉まれるうちに本名が死んでしまったが、彼は自分の意思で本名を死なせ、輝く覚悟をした。『僕は思いの全てをリセットし、また改めてこの世界で生きていくことに決めた』という一文はあまりにストレートで無防備だった。この世界で舞うことにこんな覚悟を持った青年が、次の世界を望むことがあるはずもない。数えきれないほどの観客と原稿用紙、あまりに違うものの前で一体どんな風に生きるのだろう。とくとその姿を目の当たりにできることが、わたしはこの上なく嬉しいのである。『やらないなんてない』のだから。